塩は我々になぜ必要なのか?
淡路島は古代から続く塩の生産地として重要な場所であった。
古代には、海藻についた塩を水で洗いさらにそれを煮立てて濃縮した。このような手法で使った土器製の炉の跡が、淡路島の北にある貴船神社の側や南淡路の阿万に遺跡として発見されている。こうした古代の手法はその後廃れてしまった。その後の淡路での塩の生産は、海水を濃縮する点で同じものの、別の方法が取られてきて、それも江戸時代末で廃れた。現在の食用の塩は、海水の濃縮でも特殊な膜を使い海水から塩化ナトリュームのみを濾過する方法がとられている。その結果、純粋に近い塩化ナトリュームが抽出され市販されている。すなわち市販の塩とは、97パーセントの純度を持つ塩化ナトリュームである。一方、我々人間には、必要不可欠な塩と呼ぶものは、塩化ナトリュームだけではなく、塩化マグネシューム、塩化カルシューム、などを含む各種の無機物イオンもある。
このヒトに必須な塩、特に塩化ナトリュームをめぐる話題についてここで触れたい。塩がなければ生きていけないのは、“敵に塩をおくるな”と言う言葉に象徴されている。これは、ヒトの体の中で、塩化ナトリュームは必須な人体構成要素だからである。ヒトの体液、特に血液中のナトリュームの量は、140ミリグラム/リットルである。血を舐めると少し塩の味がする。一方、細胞の内部のナトリュームの量は外部の10分の1程低く保たれている(図1)。また、これらの細胞外液と細胞内液のナトリューム量は、それぞれ一定に保たれている。これらの濃度が異常になるのは、よく知られているように高温時における熱中症が典型である。この時、汗とともに血液や体液のナトリュームが失われると、脳機能の低下により意識の喪失につながる。最悪では死に至ることもある。反対に、過剰な塩を摂取すると、高血圧になるのは、血液の中のナトリューム量が増加し、これを薄めるために水が血液に入り、血管を膨張させるためである。塩化ナトリュームの適正な摂取量は、毎日6グラムぐらいと厚生省は提案しているが、日本人の摂取量は、10グラム近くになっている。この量は欧米に比べて高く、米を主食にする食事スタイルのためである。
ナトリューム量は、上記のように細胞外液と内液では差があり、外側の方が常に高くなっている。面白いことに、細胞外液(体液)の無機塩類イオンの組成は海水に似ている(図1)。これは、ヒトの祖先、さらには生物の祖先が海にあり、その環境の記憶と言われている。ここで細胞外液と内液のナトリュームの濃度が違うことが、生きる上で重要な働きを持つことについて触れたい。細胞の周りは、イオン類を一切通さない脂質で出来た膜で囲まれているので、外と内に差が作ることが可能である。所々に、この膜にはイオンを必要に応じて透過させるためのタンパク質が埋め込まれている。このタンパク質のひとつは、細胞内液のナトリュームを常に細胞外に汲み出す働きをしている(図2)。一方、ナトリュームを細胞内に必要に応じて入れる仕組みのタンパク質も膜に埋め込まれている(ちなみに細胞の周りや内部の小胞は、膜で囲まれており多数の物質透過のタンパク質が埋め込まれている。(図3))。その一つは、食事の際に摂取したブドウ糖が細胞外から内へ、また細胞内から外へ移動する時に必要となる仕組みに関わっている(図2)。このようなタンパク質のひとつでは、外側に沢山あるナトリュームが細胞内に流れこむ力を使ってブドウ糖を細胞内へ移動させる。内部に溜まるナトリュームを常に送り出すダイナミックな動き(図3中のNa+/K+ATPaseと示したもの)は、神経細胞が働くためにも必須である。こうしたことから、ナトリュームが生きる上で必須なことが理解できる。中村と金澤らは、細胞の膜に存在するナトリュームを輸送する新たなタンパク質を見出し(N.Nakamura, et al., J. Biol. Chem., (2005) 280, p1561)、北海道大学の高橋と斎藤らとの共同研究で、このタンパク質の働きが遺伝的になくなった男児では、精神遅滞を起こす疾患があることを報告している(Y. Takahashi, S. Saito, et al. Am. J. Med. Genet., (2011) Part B, p799)。
塩化ナトリューム(NaCl)は、ナトリュームイオンと塩素イオンが結合したものである。従って、塩素イオンも生きる上で重要な働きをしている。肺の気管表面の細胞に塩素イオンを細胞内部から外部に送り出すタンパク質がある。このタンパク質の遺伝子に遺伝的に異常があり塩素イオンが細胞の外へ出ていけないと、気管に水がたまり、呼吸ができなくなる。嚢胞性線維症という難病で、欧米人に多い。 始めに記したように、ヒトに必要な塩(各種無機イオン)としては、ナトリューム以外にマグネシュームや、カルシューム、カリュームなどのイオンが含まれる。それぞれのイオンはナトリュームと同じように細胞の中で多くの必須な分子レベルの仕組みに関わっている。従って、純粋なナトリュームだけを摂取すれば良いということにはならない。海水には、塩化ナトリューム(78%)以外の塩化マグネシューム(10%)、硫酸マグネシューム(6%), 塩化カリューム(4%)、硫酸カルシューム(2%)などが含まれている。この点に注目し、古典的な手法となった海水からの塩の製造を目指す淡路島での取り組みが、淡路島に移住したヒトによって進められている。この塩はオノコロ雫塩と名付けられ販売されている。こうした起業は、淡路島の活性化にもつながる地道な試みであり、注目したい。