音楽と音の安らぎとは
音楽と言えば、誰でも自分の好きな音楽のメロディーを思い出すのではないだろうか。仕事がうまく行った時に、あるいは気持ちが高揚した時には、あなたはどんな曲を思い出すだろうか。ベートーベンの歓喜の歌、坂本九の上を向いて歩こうなど、誰にも自分のテーマソングはあるだろう。テーマソングを思い出すと、ヒトは元気になる。
さて淡路島のテーマソングはなんだろうか。伝統ある淡路島の浄瑠璃の語りの一節だろうか。ところで、今淡路島には、素晴らしい和太鼓の仲間達がいる。“鼓淡”といい、淡路島を拠点に若者が集まってグループを作っている(https://www.instagram.com/kotan.taiko/?hl=ja)。神戸出身の太鼓奏者上田秀一郎氏の指導のもとに学び演奏するこのグループ”鼓淡”は、淡路島内外で演奏を行なっている。数十の異なる大きさの和太鼓の演奏は地響きのような迫力があり、聴くものの心を揺さぶる。淡路島の新しい劇場“青海波”では、日本の国の始まりが淡路島だとする古事記の中の物語をミュージカルにしたワンステップという演目が演じられている。この中で、“鼓淡”の太鼓が演奏される。その響きは聴くものを圧倒する。今や太鼓の音は、淡路の伝統音楽になろうとしている。
こうした日本の伝統音楽に加えて、今淡路島では音楽の新しい流れが始まっている。パソナ社の運営する劇場“青海波”(https://awaji-seikaiha.com/)では瀬戸内海の夕日を背景にバレリーナの針山愛美さん(https://www.emihariyama.com/)が演ずる白鳥が華麗に踊っている。音楽と踊りは、海を背景にした時、なかなか経験できない特別なものとなる。また、ここでは、ある時にはミュージカル“オペラ座の怪人”が演じられている。また、ジャズのスタンダードナンバーや日本のポップスの名曲特集など、さまざまな音楽も楽しめる。こうした新しい音楽を楽しむ機会は、ミュージックメートと呼ばれるパソナ社のプログラムに支えられていた(2018年終了)。このプログラムは、安定的に演奏機会を得られない若い音楽家に音楽演奏とその他の仕事を掛け持ってもらうことで、安定的に演奏機会を作るというユニークなものであった。淡路島を元気にする方策の一つでもある。現在は“音楽島—ミュージックアイランド”プログラム(https://www.awaji-musicisland.com/)が新たに開始されている。プログラムマスターのバイオリニスト益子侑さん(https://twitter.com/yuuuuuvn?ref_src=twsrc%5Egoogle%7Ctwcamp%5Eserp%7Ctwgr%5Eauthor)を中心に、音楽家の働く場を新たに提供している。ハイブリッドワークという仕事の仕方が、コロナ下で多くの人の共感を得つつある。音楽演奏と他の仕事を掛け持ちし、本来の音楽を仕事として継続させる試みである。音楽家は、ハイブリッドワークの先駆者かもしれない。ともあれ、音楽を身近に感じるには、音楽家を大切に育てなければならないから、この成り行きには大きな期待が持たれている。
言うまでもなく音楽は楽しみであると同時に心に癒しをもたらす。それにとどまらず、一歩進んで心の不調を治す効果もあるという。モーツアルトの音楽が心の不調を乗り越える有効な方法であると提案する人がいる。コロラド州立大学アメリカ音楽研究所のD. Campbell博士である。“モーツアルトで癒す音と音楽による驚くべき療法の全て“佐伯雄一訳 日本文芸社)という本を表している。また、斉藤寛氏は音楽による心のケアに興味を持ち大学で音楽の心理学を学んで、“心を動かす音の心理学”(ヤマハミュージックメディア、(2011))という本を出している。興味深い内容である。それによれば、音は耳から神経を伝わり脳の奥にある大脳辺縁部というところを経て、大脳の表層部にある音を最終的に感知する部位に到達し音として感知される。この過程で音は、ヒトの本能に関わる大脳辺縁部を通過するときに、この部分にある神経系に作用し、気分、記憶、などに影響する。例えば、この部分から自律神経系に指令が出る。自律神経の一つである副交感神経が刺激されれば、心は落ち着く。もう一つの交感神経が刺激されれば、心は高まりを感じることになる。
そもそも音楽を成り立たせている音とはなんだろう。この疑問に小方厚氏は物理学に基づいて答えてくれる(音律と音階の科学、講談社ブルーバックス(2018))。音は、空気の振動である。振動の回数で振動数(周波数)が多ければ高い音に、少なければ低い音になる。我々の周りには振動数の異なる音は無限にある。一方、我々が聴く音楽ではほとんどの場合は色々な楽器が使われており、音は楽譜に表されている。このように、楽器から出てくる音は、音符に表されている各音の指定振動数(周波数)として限定されている。これは楽器の代表であるピアノを思い出せばわかる。ピアノの真ん中あたりにドの音があり、これと同じ音だが音の高さの違うドは1オクターブ高いドという。この2つのドの音の周波数は、高い方が低い方の2倍の数になっている。2つのドの間が12に周波数がほぼ等間隔に分けられ名前がついている。ド、レ、ミ、ファである。ドレミは、7つである。ドレミという各キーの名前は11世紀のフランスの讃美歌に由来している。7つのキーの一つずつが出す音をそれぞれ完全一度という言い方をする。また、2つの完全一度の間の真ん中の波長は、半音上あるいは半音下と設定されている。ピアノのキーの黒い鍵がそれである。白健と黒鍵を合わせると12である。ところでバイオリンから出てくる音は、弦に置く指の位置で周波数(音)は無限に設定できる。この点でピアノとは異なる。したがって、ピアノより多彩な音が聞ける。さらに楽器の構造によって出てくる音の波の形が違い音色の違いとなる。人間の声は究極的な楽器の音とも言える。人によって声(声色)が違うのは、楽器がつくる構造、すなわち口腔内部の形状などで音の波形に違いが生まれることによる。このように、楽器の違いにより音の設定は異なり、聞こえる音楽も異なる。1オクターブの間をほぼ等間隔に割り振り音を設定するという決りのことを、平均律という。この決りに基づいて作られる音楽は西洋音楽である。この音楽の元となる決まりである音階の設定は、民族によっても異なり、日本の古典音楽は平均律の音階には基づかないという特徴がある。すなわち平均律のドレミのファとシの音がない音階を使って音楽ができている。例えば、日本人なら誰でも知っている曲“さくら”では、ファとシの音がない。アラビアなどの音楽も聞くとどこのあたりの音楽か想像できる。これは、アラビアの人たちが好む独特な音階に基づいてその音楽ができているからである。
音の繋がりである音階(音の階段)は実際の楽曲ごとで使われ方が異なっている。各曲の楽譜にはそのことが示されている。ベートーベンの第9交響曲の楽譜には、ニ短調(D—minor)と記されている。ニ短調の曲とは、ドレミのレの音を主音とした音階を使った音楽である。主音とは、その曲はこのレの音で始まるか、または終わる曲と言い換えられる。話が少しややこしくなってきたかもしれない。ピアノのキーにドレミファと名前があるのは、上に書いた通りだが、音楽ではこれとは別に各キー(鍵盤)にアルファベットで名前がついている。ラのキー(鍵盤)がAであり、隣のシはB、ドはCとなっている。さらにややこしいのだが、日本ではアルファベットの代わりにイロハニが使われている。Aはイ、Bはロ、Cはハとなっている。音楽の素人には分かりにくい。このような訳で、ニ短調のニという名前はイロハのニからきている。ニ短調とは、ニ(D)の音を主音とする短音階(図参照)のことである。さて、どの音が主音となるかで、調(調子)が異なり、その曲の調子や気分が異なる。調にはよく知られているように、短(階)調と長(階)調がある。短調の音階は、主音から2番目と3番目の音の間が、半音であり、長調では、2番目と3番目の間が完全1度(半音の2倍)である(図参照)。この違いで、短調と名付けられた曲は気分的に荘厳、鎮静的など、また長調は快活、活動的などのイメージを生んでいる。日本人は短調が好きだとの意見もあり、いろいろな有名な曲が短調である。しかし、ピンクレディーの曲などは、“ペッパー警部”などいくつも短調の曲があり、そのテンポの良さから明るい曲のイメージでもある。
同時に音を鳴らすときの音の組み合わせに協和音と不協和音がある。協和音の代表はドとミを同時に鳴らすことである。不協和音は、ドとレを同時に鳴らすことである。協和音を聞くと人は心が和む。多分副交感神経が刺激されるのだろう。不協和音では、気分はよくないか、不安定になる。交感神経が刺激されているのだろう。協和音に満ちた音楽は心地よいが、時に飽きがくる。音楽家は楽曲の中での音の展開でいくつも意外な展開をして、聴くものをハッとさせ、音楽にひきこむ。意外な展開は、急な長調から短調への変化、静けさから大音量への変化など、キリがない。不協和音をわざと入れることもよくある。上記の短調の曲は鎮静的、長調は活動的気分になることは、楠瀬理恵、井上健ら(関西学院大学)によって、生理学的に調べられている(音楽作品の調性が感情に及ぼす影響について、臨床教育心理学研究 2009、35巻 p1−7)。これによれば、それぞれの音楽で短調の場合は、副交感神経が、長調では交感神経の高まりが、心臓のパルス変化などの実測実験から示されている。
音とは何か、音楽とは何か少しここまで考えてみたが、音と音の階段のことが中心となった。音楽にはこの他、音の間隔であるリズム、音の繋がりであるメロディーが、大きな要素である。結局音楽のことを文章でいくら述べても、述べきれない奥深さがあるだろう。
理屈は置いて、淡路島にはじまる音楽の新たな楽しみにあなたも参加してみてはいかがだろうか。