“綺麗な空気のもとで過ごすと肺がんになりにくい”は本当か?
海を渉る風で空気が洗われる淡路島は、爽やかな気配に満ちている。春の緑とともに清々しい気分になる。ところで、空気が汚染しているとわれわれの肺には良くない、というのは疑いないことに思われるが、科学的に本当なのかどうか疑問も残るであろう。折しも春に先駆け黄砂が飛来し、日本の多くのところで目に見えて空気が濁っているのがわかる。肺には影響しないのか心配になる。
最近の科学雑誌Natureには、英国がん研究センターのW.Hillらが空気中に漂う汚染物質PM2.5と肺がんとの関係を詳細に調べ、この物質は肺がん発症に関わることを証明する論文(Lungadenocarcinoma promotion by air pollutants, W. Hill et al. Nature (2023) 616, p159-p167)が掲載された。ここではこれについて少し見てみたい。
まず汚染物質とはなんだろうか?空気中には工場や車などの出す排気ガス(煤)や生活ででてくる細かいプラスチックなどの断片が漂っている。これに加えて排ガス中の窒素や酸素などの酸化物があり微小な結晶を作っている。これらは煤煙中の細かな粒子に結合している。春先に多い黄砂は、中国から飛来する石英などの細かなガラスや粘土の微粒子である。こうした微粒子のうち、その大きさが2.5マイクロメートル(100万分の2.5メートル)以下の大きさの微粒子をPM2.5と呼び、肺などに取り込まれると肺の細胞に入り細胞への障害、さらに細胞の周囲に炎症を起こすとされている。なお、国連の健康に関する組織であるWHOは、世界のヒトの99パーセントの居住地区では汚染物質(主としてPM2.5)の吸引量が国連が設定する許容限度を超えており、700万人がPM2.5の吸引による影響を受け、25万人が肺がんで亡くなっているとの推定報告をだしている。それではPM2.5による肺がんの発症とはどのようなものだろうか。
図:環境庁のホームページに示されているPM2.5の発生の条件など。
W. Hillらは、この疑問に答えるべく2つのラインの調査や実験を行い、汚染物質であるPM2.5で実際に肺がん発症が促進されるという結論を得ている。この2つのラインとは、一つは疫学調査であり次のようなものである。まず、英国、台湾、韓国、カナダの住民32957人の肺がん患者とその居住地域と肺がんの発症の関係を調べている。居住地域についてはPM2.5の空気中の濃度のデータがあり、これを指標に汚染度の高い地域と低い地域に分けている。対象とした肺がん患者としては、そのがん細胞ではがんを発症させる遺伝子(発癌遺伝子EGFRとKRAS)に異常が起こっている場合に注目している(すでに多くのヒトの肺がんではこの2つの遺伝子に異常があることがわかっている)。英国、台湾、韓国でタバコを吸わないで肺がんになった人のデータでは、汚染の度合いが高い地域ほど(空気中のPM2.5の濃度が高い)EGFRという遺伝子に異常がありより多く肺がんになっている。なおタバコを吸うヒトでは、吸わないヒトに比べてPM2.5に晒されることに関係なくがんの発症はさらに高くなっている。
2つ目のラインの実験は、肺の細胞を実験室で培養するものである。この実験では、用いる肺の細胞は発癌遺伝子のEGFRに発癌性の突然変異が入ったものと入っていないものの2通りを用意し、PM2.5を培養液に加えてみた。この結果、EGFRに変異があり、PM2.5が加わった場合は、発癌が認められるが、変異がない場合やPM2.5がない場合は、発癌が低く抑えられていた。これまでの研究から、発癌遺伝子に変異があってもがん化は進まないのに対して、発癌プロモーターと呼ばれる物質を細胞にさらに与えると細胞はがん化することが、見つかっていた。発癌プロモーターとしては、クロトン油(トウダイ草化のハズの種からの油)が知られている。これをヒトの皮膚に塗ると激しい炎症が起きることがわかっている。すなわち、肺の正常細胞のがん遺伝子に異常(変異)がおき、さらにPM2.5が発癌プロモーターとして働き肺がんの発症に至ると考えられる。
W. Hillらは、肺の細胞をヒトからランダムにとり遺伝子の塩基配列を調べたところ、がんが発症していないヒトでも、がん遺伝子のEGFRとKRASで異常変異は、それぞれ調べたヒトの18%および53%に起きていた。以上の研究結果を総合し、W. Hillらはヒトは生きている間に細胞の増殖にともないDNAの複製時に誰にもがんを起こす上記の遺伝子などに偶然異常がおきる可能性があるが、それだけではがんは発症しにくいこと、肺がんについては空気中の汚染物質、特にPM2.5のような微粒子が肺細胞に取り込まれる発癌プロモーターの役割を果たした結果発癌に至るのではないか、と結論している。PM2.5のマウスへの投与により肺に炎症がおき、炎症を促進するインターロイキン1ベータと呼ばれるタンパク質因子の増加があることも、上記の論文で確認している。
こうして最新の研究成果で、空気中の汚染物質、特にPM2.5は肺がんを起こさせる促進因子であることがかなり明確になった。空気がきれいなところに住む方がよりがんにならないためには賢い選択であろう。現在日本では大気汚染防止法により全国700カ所で地方自治体がPM2.5の空気中量を時々刻々測定しているので、住んでいるところの空気の綺麗さは、時々刻々わかる。住む上の参考になるのではないだろうか。最後にこの論文では、発癌促進因子であるPM2.5のような汚染物質に触れたあと、発癌を抑えるための食事や薬の研究が有意義ではないかと述べている。