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変転する淡路島の歴史に学ぶ

淡路島の抱える最大の課題は少子高齢化による若年の住民の減少とそれにともなう経済活動の衰えである。第二次世界大戦後の昭和33年(1955年)には、淡路全体で人口は21万5千人であった。その頃淡路市も8万人ほどの人が住んでいたが今は4万人ほどになっている。現時点での淡路島全体の人口は、およそ13万人で昭和33年からみると8万人、20年前からは1万人ほど減少している。国の予測研究では、今から20年後の2045年にはさらに1万人の減少で、12万人程度にまでなると考えられている(以上;淡路市HP参照)。

  しかし、2020年には淡路市は前年に比べわずかだが67人の増加に転じ2022年度は313人増加している。一方洲本市や南あわじ市は減少が持続している。神戸新聞や日経新聞は淡路市長などへのインタビューからパソナ社の本社機能の淡路市周辺への移動が人口と住民の平均年収増加の原因ではないかと報道している(神戸新聞2021年3月9日、 日経新聞 2023年11月15日、16日、平均年収の増加の割合はは関西圏で一番とのことである)。

淡路市の人口変化   淡路市ホームページより

  それでは、淡路島はこれまでの永い歴史の中でどのように変わり、今後はどのような生活環境になっていくのだろうか見てみたい。

簡単な淡路島の歴史:

 古代から中世;

 淡路島では多くの遺跡が発見されている。南あわじでは農耕の跡や製塩の跡が発見されており、西暦200-300年ごろの弥生時代後期には農耕や水産業がすでに盛んだったことがわかる。また、同じころの人々の生活を想像させる五斗長垣内(ゴッサカイト)遺跡や船木遺跡が淡路島中部の山の上で発見れている。これらの遺跡には製鉄の跡があり農耕よりは漁業の関連の鉄製品がみつかっていて、水産業が生活の基盤であったことがわかる。朝鮮半島から製鉄の技術がもたらされて、このような遺跡に見られるように鉄は生活に根付いていたことがわかる。播磨国の風土記(淡路風土記は失われている)には、淡路にいる海人が船を使い、出雲国から大和朝廷に見参する使節や物資の運輸に堺あたりへ播磨港から関わっていたと書かれている。淡路人にとって歴史的には海は欠かせないものであることがわかる。

ゴッサカイト(五斗長垣内)遺跡内に表示される遺跡における製鉄の想像図

  西暦300年ごろには卑弥呼が日本を支配していたことがわかっており、卑弥呼の在所が奈良の南の櫻井近くの三輪(纒向)と推定されているので、淡路島とこの辺りの政権との連携が存在したと考えられる。少なくとも西暦500年代の古墳時代には淡路は南大阪に住んでいた大王(たとえば仁徳天皇)のもとに塩や海産物、獣肉などを献上していたと考えられている。実際、洲本の近くには大王の食事を管理した内膳司と呼ばれる部署に由来する内膳と呼ぶ地域があり、大王への献上の場であったと推測されている。淡路島が古代に御食の国(みけつのくに)と呼ばれていた所以である。

中世から近世: その後、中世、近世には、淡路を支配する人々は何度も変わっている。平家の支配地から源氏の支配地へとの変化がその一つである。また、織田信長の命をうけた豊臣秀吉が四国平定の過程で淡路を支配し、その後部下の脇坂氏、藤堂氏、蜂須賀氏などが支配した。江戸時代初期には姫路の池田氏が、また江戸末期までは阿波(徳島)を本拠とする蜂須賀氏が支配した。実際には、洲本に家老の稲田氏がおり支配した。しかし、明治3年に稲田氏が蜂須賀氏に反旗をあげ、結局敗れてしまう。その後明治9年に廃藩置県があり、こうした背景を考慮して初代兵庫県知事の伊藤博文の主導で徳島を離れ淡路は兵庫県に組み入れられた。

中世と近代の産業:

  江戸時代、明治初期には淡路は良質な瓦や陶器の生産があり、農業や漁業を補完する産業であった。明治の日本の近代化の過程で、明治41年には大阪の堺に工場を設置しようとしていたカネボー(鐘淵紡績)を洲本に誘致するのに成功した。以降、昭和61年まで80年近い間淡路の工業の中心を担った。近代化にともない大正3年(1914年)からは鉄道が洲本と福良間に設置され、第二次世界大戦後は電化され淡電と呼ばれて社会に根付いていた。日本の高度成長期には、淡路出身の井植氏によりサンヨー電気の大きな工場ができた。今から10年ほど前にはサンヨー電気の閉鎖に伴いパナソニックに受け継がれている。

淡路の瓦生産は江戸時代からの重要な産業

線香の生産も重要である

淡路農業と水産業も主要な産業である

近代化の上で大事な産業であった紡織の工場は今は記念の建物になっている。(洲本)

大正から昭和にかけて洲本と福良には電車が走っていた。

淡路島の産業の将来は?

  以前このHPで報告したように(新着情報、2021年8月27日、住む場所と幸福感の関係)住む場所によって幸福を感じる度合いは日本の中では異なっている(九州大学、真木教授ら)。真木教授らの研究によれば都会に近接し、収入が確保されたところで幸福感は高くなる傾向が見てとれる。これによると淡路島の幸福度は東京などと変わっていない。

  しかし、上記のように過去1000年を振り返ると淡路産業の形や政治は常に変わってきている。ほぼ50年から100年で産業と政治形態は様変わりしていると言っても過言ではない。こうしてみると淡路島も歴史ある地域の特徴を維持しつつ、住む人の幸福感も50年後には大きく変わると予想される。幸福感に大きく影響する産業は淡路ではどのようになるのだろうか。現在の状況をみると昭和に最盛期を迎えた工業化の方向は減少し、観光などが地域の特徴である農業と漁業と手を携えて収入源になっていく様にみてとれる。古代から淡路島の海は淡路人の生活の基盤であった。いま水産業は少子化や資源の減少によって衰退しつつあるが、代わって現れている観光業が盛んになりそうである。観光にとって淡路島の美しい海とこれを一望できる山は貴重なこれからの淡路島の生活を支える基盤となろう。また淡路島に伝えられる国生みの神話も他にはない特徴として貴重な注目点であろう。

 参考資料;

  1. 改訂 淡路読本 淡路読本編集会議著 監修 廣岡徹、編著 投石文子
  2. 播磨国風土記の古代史  兵庫県立歴史博物館 ひょうご歴史研究室編 坂江渉監修